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子どもには、父親の“背中”でなく“正面”を見せたい――髙木ビル3代目の子育て術

20代半ば、父から「お前は戦力にならない」と入社を断られた“跡取り”

森本 千賀子(株式会社morich 代表取締役社長。以下、森本)

森本

髙木様はビル運営会社の跡取りとして生まれました。お祖父さまやお父さまから、どのように育てられましたか?

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髙木 秀邦(株式会社髙木ビル COO(最高執行責任者) 兼 専務取締役。以下、髙木)

髙木

僕は子どものころ、おじいちゃん子だったんです。祖父は髙木ビルの創業者で、古くから続く地主の家に生まれました。しかし戦後、マッカーサーが農地改革を指示し、地主の所有していた土地は小作人に分け与えられることになりました。祖父からすれば、「自分の先祖が昔から守ってきた土地なのに、9割以上奪われてしまった」と感じたわけです。

ですから、残った1割の土地をとても大切にしていました。僕は祖父に「お前は跡取りだから、しっかりこの土地を守っていくんだぞ」と言われて育ちました。祖父はお寺の檀家総代も務めていて、檀家の集まりに僕だけを連れて行きました。僕の兄弟は一切連れて行かなかったんです。そうして「お前は跡取りなんだ」と刷り込まれていきました。

僕は跡取りとして扱われること自体はうれしかったですし、「ああ、そうなんだ」と思っていました。けれど「跡取りだ」と言われ続けた結果、「跡を継ぐしかないんだ」という感覚になり、自分自身の夢を持てなくなってしまったんです。

小学生の時に、「将来の夢」について作文を書いたことがあります。僕は夢がなかったので、どんな夢について書こうかとても悩みました。結局、定番の「パイロット」と書くことにしたのですが、本当になりたかったわけではありません。「パイロットになりたいけど、できれば手近な国内線のパイロットがいい」なんて書いていましたね(笑)

僕は子どものころ、なんでも器用にこなせるタイプだったのですが、全力を出し切れないことが多くありました。友達と何か競うときも、最後で引いてしまう子どもでした。野球部に入ったこともありましたが、すぐに辞めてしまいました。その後も夢中になれるものは見つかりませんでした。

けれど、10代後半で音楽に出会ったんです。音楽と出会ったことで、初めて自我が芽生えたように思います。「自分って何なんだろう」「どうして生まれたんだろう」ということを考えながら、音楽に夢中になっていきました。

四六時中ギターを弾いて、朝から晩まで音楽を聴いている生活でした。父に「これからどうするんだ」と聞かれても、「俺は音楽で食っていくんだ」と答えていました。そして家を飛び出したんです。

以降、プロミュージシャンとして充実した活動をしていました。けれど2000年代になると、バンドマンにとっては苦難の時代に入り、音楽仲間たちは次々と事務所との契約を切られていきました。私もバンドマンとしての生活が厳しくなり、契約を切られてしまいました。それでもしばらくは、アルバイトをしつつギタリストとして活動していましたが、そうこうするうちに自分の所属していたバンドが解散することになり、バンドマンとして生きていくことを諦めざるを得なくなりました。

そうなって初めて、祖父から髙木ビルの跡を継いでいた父に「会社に入れてほしい」と頼みに行きました。けれど、一蹴されましたね。「会社に入れてやろう」という話にはなりませんでした。

「弁護士や税理士になっているならまだしも、今のお前がうちの会社に入っても何の戦力にもならない」と言われました。そこで初めて「そりゃそうだ。自分の考えはなんて甘かったんだろう」と痛感したんです。

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髙木

ちょうどそのころ、祖父が亡くなりました。それでいよいよ甘えられる相手がいなくなり、「人生を見直さなくてはいけない」と思いました。「音楽のことは断ち切って、ゼロからやるしかない」と。父には一蹴されましたが、「何としても不動産の世界で働きたい。いずれは家業を継ぐんだ」と胸に秘めていました。

すでに20代半ばになっていましたが、一から就職活動を始めて、幸いなことに不動産会社に就職することができました。この時に人生の方向性が一気に変わったんです。それまでは全く不動産業には関わっていませんでしたし、父も「不動産業をやれ」とは言っていませんでした。

男親として、子どもには“背中”でなく“正面”を見せたい